長崎で食べられ、横浜で作られた:日本のチョコレートと港町の物語

配当金でチョコレートを買うイメージ画像 チョコレート紹介

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横浜・みなとみらいのハンマーヘッドを訪れたとき、ふと思いました。「なぜこの街には、チョコレート専門店が似合うのだろう」と。

正直に言うと、明確な理由があるわけではありません。ただ気になって調べてみると、日本のチョコレートの歴史には、港町が深く関わっていたことがわかりました。今回はその歴史を辿ってみます。

停泊した船から横浜をのぞむ。バニラビーンズ ハンマーヘッド店で過ごした午後


チョコレート、日本上陸の記録:長崎・出島(1797年)

日本で最初にチョコレートが記録に登場するのは、横浜ではなく長崎です。

江戸時代、日本は鎖国政策のもとで海外との貿易窓口を長崎の出島に限っていました。1797年(寛政9年)、出島に暮らすオランダ人から長崎の遊女へ贈られた品の中に「しょくらあと」という記載があります。これが史料に残る、日本最古のチョコレートの記録です。

つまり日本人が初めてチョコレートに触れたのは、鎖国下でただひとつ開かれていた港、長崎でした。


横浜で生まれた、日本のチョコレート製造(1878年)

一方、横浜には別の重要な歴史があります。

開港で流入した外国人から技術を学んだ「風月堂」

1859年の横浜開港以降、多くの外国人が横浜に移り住み、ホテルや洋菓子店を営むようになりました。日本人の菓子職人たちは、彼らのもとで西洋の製菓技術を学んでいきます。

そして1878年(明治11年)、横浜で学んだ東京・両国の「風月堂」が、日本で初めてチョコレート製品を製造・販売しました。長崎で初めて「食べられた」チョコレートから約80年後、横浜を経由して初めて「作られる」ようになったのです。

「食べる」場所と「作る」場所、2つの港町

長崎は鎖国という特殊な状況下での「出会いの港」、横浜は開国後の「学びの港」。日本のチョコレートの歴史は、この2つの港町がそれぞれ違う役割を果たすことで形作られてきました。

みなとみらいという場所を歩きながら、こうした歴史に思いを馳せると、見慣れた景色に新しい輪郭が浮かび上がってきます。


港町という土地の記憶:ハンマーヘッドという場所の意味

バニラビーンズのハンマーヘッド店がある「ハンマーヘッド」は、かつて大型客船の貨物を積み下ろす作業場として使われていた埠頭です。横浜が開港以来、人と物と文化が行き交う港であり続けてきたことの、今に残る痕跡のひとつです。

以前の記事で、テラス席から見える景色を「停泊した船から横浜をのぞむ感覚」と表現しました。この感覚は、単なる比喩ではなく、この場所がかつて実際に船と貨物のために存在していたという歴史とも、どこかで繋がっている気がします。


投資家の視点:海運・貿易とカカオの意外なつながり

チョコレートの原料であるカカオは、今も世界の産地から船で日本へ運ばれています。このブログで紹介してきた五大商社(三菱商事・三井物産・伊藤忠商事・住友商事・丸紅)は、こうした国際的な食料・農産物の輸入を担う存在でもあります。

歴史を振り返れば、日本のチョコレートは常に港とともにありました。そして現代でも、カカオという原料は貿易という形で港と船に支えられています。長崎・横浜という港町の歴史と、今わたしたちが投資している商社の事業は、意外なところで地続きなのかもしれません。

商社株についてはこちらの記事で詳しく解説しています。

商社株はなぜ12月に集中するのか。バフェットと同じタイミングで買い始めた話


まとめ:港町とチョコレートは、地続きの物語だった

  • 日本最古のチョコレート記録は1797年、長崎・出島でのもの
  • 日本初のチョコレート製造は1878年、横浜で学んだ技術による「風月堂」から
  • 長崎は「出会いの港」、横浜は「学びの港」として、それぞれ異なる役割を担った
  • カカオは今も貿易という形で港と船に支えられており、商社の事業とも繋がっている

みなとみらいでチョコレートを味わうとき、その足元に積み重なった歴史に少しだけ思いを馳せてみるのも面白いかもしれません。配当金という仕組みも、こうした貿易・商社の営みの延長線上にあります。まずは証券口座を開いて、その仕組みに触れてみてください。

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バニラビーンズでの実際の体験はこちらの記事でまとめています。

停泊した船から横浜をのぞむ。バニラビーンズ ハンマーヘッド店で過ごした午後

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