チョコレートを作る人たちの物語:一粒に宿る情熱

配当金でチョコレートを買うイメージ画像 チョコレート紹介

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これまでこのブログでは、さまざまなチョコレートブランドを紹介してきました。ただ、その一粒の向こうには、必ず作り手の物語があります。

今回登場する5人は、それぞれ違う道のりを歩んできました。ラグビー選手から、経営コンサルタントから、洋菓子の世界大会優勝者として、業界の壁を越えた先で、そして生粋のショコラティエとして。異業種からの転身もあれば、同じ業界の中での深化もあり、生え抜きの職人もいる。情熱の形は、人それぞれ違います。


石原紳伍(メゾンカカオ):ラグビーの「ワンチーム」を「家族」に変えた男

帝京大ラグビー部で学んだ組織づくり

メゾンカカオを率いる石原紳伍氏は、大阪出身で中学・高校時代はラグビー選手として全国優勝を経験しています。帝京大学に進学するも、3年生の終わりに選手としての道を断たれ、学生コーチという新たなポジションを打診されました。悩んだ末にその役割を受け入れ、「4年生が掃除や洗濯を率先して行い、優秀な1年生を練習に専念させる」という組織改革に乗り出します。石原氏の卒業から3年後、帝京大ラグビー部は初優勝を果たし、以来16年間で13度もの優勝を重ねる強豪校になりました。その礎を作ったのが、石原氏だったのです。

リクルート時代、10ヶ月で1,700件という驚異的な営業記録

卒業後はリクルートに入社し、新規開拓の社内記録(それまで年間数百件だった件数を、わずか10ヶ月で1,700件に更新)を打ち立てる、トップ営業マンとして活躍しました。

29歳、コロンビア旅行での出会い

そんな石原氏の人生を変えたのが、29歳のときにたまたま訪れたコロンビア旅行です。ここでカカオの魅力に出会い、チョコレートづくりを独学で学び始めます。2015年、鎌倉にチョコレートブランド「カカオ」をオープンさせました。

「君はもう私たちの家族の一員だ」という一言がブランド名の由来に

創業翌年、再訪したコロンビアの農園で、現地の責任者からかけられた言葉が、石原氏の経営をさらに進化させます。「君はもう私たちの家族の一員だ」。石原氏はラグビーで培った「ワンチーム」という理念を「家族」へと昇華させ、ブランドに「メゾン(家族)」の名を加え、新たなスタートを切りました。

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山下貴嗣(Minimal):年間3,119レシピを試作する探求者

経営コンサルタントとして働いていた29歳での決意

Minimalを創業した山下貴嗣氏は、1984年岐阜県生まれ、慶應義塾大学商学部を卒業後、新卒で経営コンサルティング会社に入社しました。数多くの企業のコンサルティング業務や新規事業の立ち上げに携わる中で、29歳のとき「30歳で会社を辞める」と決意します。

2013年、Bean to Bar文化との出会いをきっかけに独立

退職後のキャリアをまだ決めないまま辞めることを決めた山下氏は、2013年にBean to Bar文化と出会ったことをきっかけに独立を決意。2014年8月、株式会社βace(ベース)を創業しました。飲食業界の経験がまったくないところからのスタートでした。

創業3年で日本人初の世界大会金賞

創業以来、山下氏は来る日も来る日もチョコレートと向き合い続け、年間で3,119ものレシピを試作したこともあるといいます。この探求心の結果、創業からわずか3年で日本人として初めて世界大会での金賞を受賞するまでになりました。

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辻口博啓(ル ショコラ ドゥ アッシュ):世界を獲ったパティシエが選んだ、次の頂

洋菓子の世界で数々の実績を残してきた辻口博啓氏は、23歳で全国洋菓子技術コンクール史上最年少優勝を果たし、その後も世界大会で日本代表として活躍してきました。パティシエとして頂点を極めたのち、近年はショコラティエとしての挑戦にも力を注いでいます。パリのショコラ品評会で通算9回もの最高評価を獲得するなど、洋菓子の技術をチョコレートという専門分野に注ぎ込み続けています。

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小方真弓(カカオハンター):「女性を産地に出さない」壁を越えた先にあったもの

1997年、チョコレート原料メーカーに新卒入社

カカオハンター・小方真弓氏は、1997年に製菓原料チョコレートメーカーに入社し、開発部門でチョコレートのレシピ開発に携わっていました。決して異業種からの転身ではなく、チョコレート業界そのものの中でキャリアをスタートさせた人物です。

当時の業界の空気を破り、独立してカカオ生産国を巡る

「このチョコレートの原料は誰がどうやって育て、収穫したのか」を知りたいという素朴な好奇心から、小方氏はカカオの生産現場を見たいと考えるようになります。しかし当時の日本にはカカオの栽培現場に詳しい人が少なく、加えて「女性をカカオ産地に出してくれる空気がなかった」という業界の壁がありました。小方氏はこの壁を、会社を辞めて独立するという決断で乗り越え、カカオ生産国やヨーロッパなどの消費国、計30カ国を巡るようになります。

コロンビアに拠点を移し、現地のカカオ品質向上に取り組む

2010年、コロンビアのカカオ会社に自己資金を投資して経営に参画し、翌年から活動拠点をコロンビアに移しました。以来、現地でのカカオ発掘、品質向上、生産指導、生産農家の発展支援に取り組み続けています。

大阪・関西万博で、カカオの現在地を見てきた話


小林正和(奥信濃BUNZO):生チョコレートを発明し、特許を取らなかった男

小林正和氏は、5人の中で唯一「生粋のショコラティエ」です。1982年に神奈川・平塚で洋菓子店「シルスマリア」を開業し、1988年、トリュフの「中身だけ食べたい」という素朴な発想から、日本初の生チョコレートを考案しました。

驚くべきことに、小林氏はこの発明の特許を取得しませんでした。広く世に広めるため、あえてレシピを公開したのです。この選択がなければ、今のように多くのブランドが生チョコレートを作ることもなかったかもしれません。2020年、故郷である長野県飯山市へ移住し、現在は「奥信濃BUNZO」として、生チョコレート発祥の原点である手作りの姿勢を守り続けています。

奥信濃BUNZO:生チョコレートを発明した男が、故郷に帰ってきた


まとめ:異なる道のりが、一粒に交わる

  • 石原紳伍(メゾンカカオ):ラグビー・営業からの転身、コロンビアで得た「家族」という理念
  • 山下貴嗣(Minimal):経営コンサルタントからの転身、年間3,119レシピの探求心
  • 辻口博啓(ル ショコラ ドゥ アッシュ):洋菓子の頂点からショコラティエへの深化
  • 小方真弓(カカオハンター):チョコレート業界の生え抜きながら、業界の壁を独立で突破
  • 小林正和(奥信濃BUNZO):生粋のショコラティエ、生チョコレートの発明者

異業種からの転身も、同じ業界の中での深化も、生え抜きとしての探求も。道のりは違っても、一粒のチョコレートに情熱が込められていることに変わりはありません。

そしてその情熱やおいしさは、たくさんのチョコレートを知り、実際に食べてみることで初めて触れられるものです。月にひと粒、あるいはひとつのアソートボックスを買うだけでも、その世界を十分に堪能できます。

こうした「毎月少しずつチョコレートを楽しむ」という仕組みを、無理なく自動的に回していけるのが、配当株投資です。まずは証券口座を開いて、自分なりの仕組みを作ってみてください。

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保有銘柄の全体像についてはこちらの記事でまとめています。

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